いよいよ明後日となったゴー宣DOJO「伝統ではない!男尊女卑だ!」を前にして、「男尊女卑」という言葉自体についてあれこれ考えたり読んだりしていたら、この言葉は観念を表しただけのものではなく、中国の古典「列子」に端を発している事を知りました。
少し古い記事ですが、語の解説と共に、現代への(多少の皮肉をこめた)応用も含めたこちらのエッセイがなかなか面白かったです。
逸話中に登場する老人が「人間であること」「男であること」「長寿であること」を誇りにしている事に対する
しかし、これを裏から読むと、次のようになる。
「地位もない」
「財産もない」
「家族にも恵まれなかった」
これは当時の一般的な基準からしても、まったく不遇な晩年に他ならない。いわば、それ以外に自慢できるものが何もない境遇における、ギリギリの幸せを、老人は口にしていたわけだ。
これは現代でも、事情は同じではないだろうか。「男尊女卑」的な発言をする人々というのは、往々にしてそれしか威張りようのないタイプだったりもする。
しかし、そんなマイナスな考え方でも、使いようがあれば使ってしまえというのが『列子』の考え方なのだ。
この分析は、男尊女卑〜その延長線上の男系男子固執が持つマインドと、そのまま合致するなあと、大変面白く感じました。
これに「一般的なネトウヨマインド」の観点から一つ加えるとすれば、単なる事象というレベルでの「日本人として生まれた」も入りそうです。
守屋氏の文では、おそらく皮肉の意味も込めた上で「弱者が心のやすらぎを得るための後ろ向きな知恵」として記述されています。
それは表現を変えれば、「敗者のルサンチマン」という苦痛から逃れるための「麻薬」のようなもの。
女帝が当たり前に存在した日本本来の価値観は、律令と共に輸入された「男尊女卑という麻薬」によって大きく歪められ、その後遺症を今に至るまで引きずっているのかもしれないですね。
その「不健康」から抜け出すための糸口を、明後日の会場、配信、パブリックビューイングなどでぜひ見出したい所です!